私の母方の祖父母の住む地域には無縁塚がある。
塚の存在を知ったのは、私が9つの時に隣に住む祖父の兄弟が漁に出たきり帰ってこなかった年の祭事の時であった。
漁村ということもあり、仕事をしに海へ出てそのまま帰らない、という者は度々おり、浜にあがる誰だかわからない者を墓地の向かいにある塚へ納める。
祖父母の漁村は家で出るゴミすら浜で燃やすような小さい漁村で、知らない遺体が上がった時に警察を交えるのも面倒だという理由で塚に納めているという噂は聞いていた。
そういう理由もあってか、塚へ続く道は定期的に草が刈られていた。
お盆になると漁村では祭事(集団供養?)が行われ、港の作業場に簡易的な仏壇を設け、葬儀場での物とは別の、簡易的な供養を執り行っていた。
その年行方がわからなくなった者、直近で四十九日を迎えた者、三回忌を迎えた者の遺影が一枚、また一枚と増えていく。
しかし、帰らない者と帰る者の数が比例しないため、遺族は遺影と位牌を故人として弔う。
顔のある故人は家族の管理する墓地へ納められるが、そうでない者は空の墓に位牌だけが入り、それすらわからない余りは塚へ納められるそうだ。
地域性もあってか、若いもの達は次々に漁村を離れ、残るのは老齢の漁師達と少しの後継ぎ、そしてホームに預けられた誰かの祖父母たち。
私が18で上京するまで月に一回、車で2時間ほどの漁村に住む祖父母の様子を見に行っていた。
漁村から見る海が綺麗だったのもあり、祖父母をほったらかして良く堤防から海を見ていた。
数年ごとに家々は取り壊されて祖父母の家の周りは少しずつ見晴らしが良くなり、歳を重ねるごとに海がよく見えるようになったので少し嬉しかった。
私が6つか7つの頃、漁村の役所人が少しでも町おこしになればと地域の子供を集めてレクリエーションをする日、「こどものための日」を発案し、近所の海に面する一万平米ほどの公園を貸し切ってイベントをしていた。
私も弟と一緒にレクリエーションに参加し、漁村に住む10人ほどの子供達とビニールのボールでサッカーやドッジボールをすることになったが、年相応に楽しんでいた。
子供というのは不思議なもので、本当にすぐ馴染む。
顔も知らなかった子供達と手を繋いで駆け回り、役所が買ったお菓子を食べ、方言の強いどこかの子供とおしゃべりをし、ボールで遊んだ。
子供のうちの1人が、弟と近所の女の子と一緒になってアリを突っついていた私に聞いてきた。
「そっちん方じゃみんな何で遊んどっと?」
「最近はポケモンパールよ。友達はダイヤモンドもっちょるよ。」
「へ〜みんなゲームしちょるんね。みなとにはゲームセンターもないかい、ボールとヒトデしかないがね。タケルくんがゲームボーイでポケモンしちょってやらしてもらったげな。おれも買ってもらいたいな〜」
ゲームのない地域は暇そうで嫌だな、と今覚えば子供らしい残酷で正直思いを隣にいた弟にぶちまけ、今度は私の方から漁村の学校での授業について尋ねた。
「今学校でなに勉強しとっと?」
「最近わりざんを勉強しちょるわ〜ぜんぜんわからんげな」
「僕わりざんはこないだテストで100点取ったよ!すごいやろ〜。今はしょうらいのゆめをグループでかけっていわれちょるよ。さかなつり好きだからじいちゃんにさかなつりのこと聞いてみんなで書こうと思っとるげな」
「へ〜さかなつりは楽しいな〜。おれは父ちゃんみたいに船に乗って海に行きたいな〜」
漁村の子供達は多くが県外へ出るが、一部の子供は跡継ぎとして海へ行く。
そうやって漁村は長くその地域性を育んでいた。
私が15になった夏に祖母が玄関先で頭を打ち、少し鼻先を切ってしまった。
それを皮切りによく祖母は転ぶようになり、その年の冬には認知症を発症してホームに入った。
17の夏に祖父と母と弟で、祖母の様子を見に行った。
自己紹介をしないと私と弟の名前を思い出してはくれなくなっていたが、祖父と母のことはしっかりと覚えているのか、仕事についてよく聞いていた。
「お父さんあんた最近も海行っとるんかえ」
「行っとるわ〜。金もねぇかい毎日でちょるけど最近のサワラはてげちっちゃいげな」
「ハル(母)は最近もスーパーで働いとるんね」
「もう3年前に辞めて今はうどん屋ってこないだ言ったげな!話したのもう覚えちょらんと?しっかりしてよ母さん」
「タクくんは漁師にはならんのね」
「魚は好きだけどね。東京の学校に行くことになったしナオ(弟)が継ぐよ」
「僕船事故らせる自信しかないから爺ちゃんに任せるよ」
祖母が元気だった頃の姿を知っている故に、言葉の端々がチクチクと刺さる。
私は祖母の様子を見にいくのが嫌だった。
その年の祭事に祖父と一緒に出かけ、私は祖父の仲間の漁師連中のビールを注ぐ係に任命された。
港の中に簡単に作られた横に長い仏壇、その列の端にあるビールサーバーと仏壇の前に敷かれたブルーシートの上に座る祖父と仲間達。
彼らに酒を運ぶのは意外と楽しかった。
祖父と仲間は声が大きかったので、ブルーシートから遠いビールサーバーの前でも話はよく聞こえた。
「今年の魚は痩せてていかんね」
「こんなに海に行っても痩せてちゃたまらんわ。酒代ばっかり減るげな」
「去年はイワシがよう釣れとったんに今年はどげんしたんかねぇ」
「サカイおじやんがこないだ200kgのクロマグロあげて新聞のっちょったけど、去年帰ってこんなって新聞も面白くなくなったわ」
「この飲み会も年々人が減って仏壇ばっかい増えますわぁ。タツ(祖父)さんももう年長ですし、引退してもいいと思いますよ。」
「俺が辞めたら誰がパチンコ屋にお小遣いやるんじゃ。酒も買えんごなるげなボケ」
「タク(私)はよビール持ってこんね。お小遣いやるから10杯作ってこい」
田舎のジジイどもの話は決まって酒とパチンコと死んだ仲間たまに相撲、そして必ず入る海の話。
小遣い稼ぎに何度も祭事には参加したがこれだけは変わらなかった。
漁村にとって海は生命線であり仕事場、まさに生死を共にする心臓のような存在だったのだろう。
19になる少し前、漁師の祖父が旅立った。
86まで現役で漁師を貫いた立派な人だった。
彼は港の船の中で倒れているのを仲間に発見され、そのまま病院に運ばれその日の晩に意識を取り戻したが、朝便所に立った時に再び倒れ、そのまま帰らなかったらしい。
漁の帰りに倒れたようで、船のいけすには魚が入っており、家のレンジには帰って食べようと思ってたであろうチルドの焼き鳥が入っていた。
漁のアガリは仲間が換金していたようで、葬儀の日に仲間が母に渡していた。
どうやらそのシーズン1番の漁価だったようで、仏間の奥に眠る祖父を仲間が「すごいすごい大往生や」と褒め称えていた。
通夜は賑やかだった。
私は父の勧めで葬儀の喪主に指名され、通夜に集まった大勢の漁村の仲間のお酌をしたり、通夜らしい話をした。
「お前のジジイはすごい奴だよ。船の上で倒れてたんだろ?しかも漁の帰りらしいじゃねぇか。ちゃんと帰ってこれてすげぇ奴だ。」
「あいつはよくやった。あんなサワラは久方ぶりに見たげな。」
「立派な奴じゃあ。前ん日までパチンコ打って焼酎飲んどったっちゃろ?しかも倒れたんは好きな船の上じゃろ。ええ締め方や。」
「おれも死ぬなら海ん上がええげな。家は嫁がうるさくてたまらん。」
「タク、せっかく爺さんの船があるんだ。お前も漁師になって海に出ろ。」
次の日、葬儀に移って各々が準備を進めていた頃、老人ホームのバンが葬儀場に到着し、車椅子に乗った祖母が施設の人に押されて入ってきた。
この時祖母は認知症がかなり進行しており、私との会話もままならない状態だった。
祖母は施設の人に抱えられて棺桶を覗き、少しを間を開けてオイオイと泣いた。
ひとしきり泣き終わった後、親族が「お父さんにお別れしましょ」「お母さん、最期に何か言ってあげて」と声をかけた。
祖母はゆっくりと話した。
「なんで先に逝ってしまった。おれは1人になってしまった。タツ、お前は海に行けたのか」
祖母はゆっくりもごもごと、振り絞るような声で祖父への思いを語った。
それを聞いた母は泣いていた。
私が喪主に指名されたのもあり、お別れの挨拶は私の担当だった。
実家から漁村への車の中で考えた2分ほどの別れの挨拶をしたところ、参列者から短いスピーチを褒められ、漁村の寺の住職も声をかけてきた。
「タクくん、スピーチよかったですよ。お爺さんも誇らしいでしょう。」
「いえいえ、式を進行してくださった住職様にはかないませんよ」
「私は自分の仕事をしただけですので。こんな漁村です。慣れてますし、意外と忙しいんですよ。」
40代入ったくらいの住職は最近先代から跡を継いだようで、一時期八王子の方の山で修行をしてたらしい。
私も八王子に一時期住んでたので話は弾んだ。
「お爺さんは信心深い人でした。一緒に寺に来てたお婆様が施設に入られてからも、1人仏間で拝んでおられました。」
「知らなかったです。てっきりあの祖父の事だからサボるもんだと」
「漁師において寺は大事な物です。人との交流の場にもなり、なにより仏様を拝めることは海の仕事に直結します。今回もそれがあって早く見つけてもらえたんでしょう。」
「そうでしょうねぇ。祖父も仏間に祀られる側になりましたし、私も行くことになりそうです。今後ともよろしくお願いします。」
「そうですね。ぜひまた来てください。そうそう、君は東京の方に住んでるんでしたよね」
「はい。今は学生ですけど追々神奈川の方で仕事する予定ではあります。」
「それがいい。あなたのやりたい事をしなさい。お爺さんが漁師だから跡を継がねばならないということはない。特に海は危険です。帰らない人も多い。本当に安全な仕事というのはあまりないですが、海に行って帰ってこなかったり、塚に入るよりはいいでしょう。」
おそらく住職は、人生の少し先輩なりに気を遣ってくれようと言葉をかけたのだろう。
海を仕事にする事を止めたのは彼だけだった。
私が23になる前の月、祖母が旅立った。
時期は祖父が旅立った時期とほぼ同じだったため、親族からは「お父さんの所へ行ったのね」「施設にずっといるよりいいげな、お父さんのところに行っておやり」など、祖父にまつわる話が多かった。
私は神奈川で仕事をしていたので、すぐに切り上げて葬儀場に向かったが、祖父の時と比べて親族は少なかった。
祖母は海に出る人ではなかったので、漁師仲間が少なかったり、友人は先に旅立ったか、施設に入っているため、葬儀に参列できない人の方が多かったのだろう。
私が仕事や、疫病の流行のため、しばらく漁村と祖母の施設に行けなかったのもあるが、久しぶりに会う面々が参列していた。
祖父の妹にあたる方が私に声をかけてくれた。
「タクくん久しぶりやねぇ。最後に会ったのはタツ兄さんの葬儀以来かえ。仕事はどうね」
「まぁまぁうまいこといっちょるよ。飯も1人で炊けるげな」
「あらぁ偉いねぇ。気付かんうちに立派になってからに、元気そうでよかったわ」
「婆ちゃんも逝ってしまったからに、もう墓参りくらいにしか帰ってこんかもしれんね。」
「それでええそれでええ。ミツ(祖母)さんも嬉しかろうて。こっちん方も人が減ってきて祭事もやらんなるかもしれんつよ。」
「そうなの?結構楽しみにしてたんに」
「そうよぉ。もう後継ぎも減ってね。墓もほったらかしんところが多いとよ。塚の方も最近は誰が管理してるんか知らん。」
確かに、母と一緒に祖父の墓を掃除しに行った時、いくつかの墓が草木で荒れていた。
私の方で他の墓は少し片付けたが、塚へ続く道は少し前と比べて草が生い茂っていた。
漁師が減ったり、町の方に新しい墓地ができたので、使う墓が減ったのだろう。
浜に流れ着いた遺体も、警察が引き取って町の方にできた集団墓地に埋葬されるようになったらしい。
きっとこうやって地方の墓や塚は死んでいくのだ。
タバコを吸おうと葬儀場の外にある喫煙所へ寄ったところ、葬儀に参列していた漁師であろう人が2人おり、話をしていた。
「今年はよく釣れるげな」
「湾の方でタイが網にいっぺかかったわ。ええ年や」
「そうそう、最近浜に人が上がったっつよ。しっちょる?」
「しっちょるしっちょる。こないだマサさんがおらんなったけど、あん人やろか。」
「いやぁ、もうわからんかった言う話よ。町ん方に納めようってなっちょったらしいけど誰かが塚に入れとけ言ったらしくて塚ん方入れたらしい」
「それがええげな」
祖母の葬儀は粛々と進み、お骨は祖父と同じ墓へ納めた。
墓の帰りに塚の方を少し見てみると、道の草が刈られていた。
住職か、土地の管理人がやったのかはわからないが道はすっきりとして車が一台通れるくらいの幅に整理されていた。
小さい頃から漁師のジジイの話を聞いてきたが、どうやら塚に誰かが入る年は漁価がいいらしい。
祖父母が旅立ち、使う人のいなくなった祖父母の家を片付けていた。
片付けが面倒だったのでこっそり家を抜け出して、港の祖父の船が係留されていたあたりを見に行ってみた。
祖父の船は仲間によって片付けられたと母から聞いていて、今は別の船が係留されていた。
一度だけ祖父の船に乗ったことがあったが、とても楽しかった。
もう一度祖父の船で沖へ出てみたかった。
今でも祖父の仲間に頼めば海へ行かせてくれるだろうか。